ホール効果なんて誰でも測定できる、物性実験家にとって初歩の初歩の実験だ。だって測定自体そんなに難しくなんかない。電極を付けて電流を印加、磁場を変えながら電圧を読む。電極位置のずれを補正するため、データは磁場に対して反対称化。ほら、ものの数時間でなんとなくそれっぽいデータになるじゃあないか。磁場に対する傾きからキャリア密度を見積もって、強磁性体なら、何だったら反強磁性体だって、磁化に比例する異常ホール効果なんてのも出てくるけど、要するにベリー位相が創発磁場をエマージェントしてるってことさ。まあ、ちょっと小難しいことは出てくるときもある。マルチバンドだったり、トポロジカルホール効果?なんてものが出てくる場合はちょっと複雑になるけど、解析手法は確立している。適当な論文をみつけて、舗装された道を安全に渡っていけば、論文というゴールまでもうすぐそこさ。ぼくの輝かしい研究者のキャリアの第一歩。このまままっすぐ、ずっとまっすぐ。
(1) 測っている”ホール抵抗率”は\(\rho_{yx}\)なのか\(\rho_{xy}\)なのか?
ホール効果は印加電流密度\(j_x\)に対して横方向の電場\(E_y\)をつかって、ホール抵抗率として\(E_y=\rho_{H}j_x\)って書くことができる。\(\rho_{H}\)じゃあそっけないから、テンソルっぽく\(\rho_{xy}\)とでも書こう。論文を読むと\(\rho_{xy}\)だったり、\(\rho_{yx}\)だったりするな。まあ、どっちでもいいだろ。測定で出てきた電圧値(\(V_H\))を反対称化して、試料の寸法でスケールして、\(V^{Asymm}_H/(w\cdot j_x)=\rho_{xy}\)。ほら、できた。
(2) ホール伝導率\(\sigma_{xy}\)はどうやって計算するのか?
ホール抵抗率\(\rho_{H}\)に対し、ホール伝導率\(\sigma_{xy}\)という物理量も、物性を議論しているときにはよく出てくる。\(\sigma_{xy}\)は直接測定できないけど大丈夫。抵抗率とホール抵抗率の測定値から逆算すればいいんだってさ。文献をググったらすぐに見つかった。みんなが使ってて安全な変換公式\(\sigma_{xy}=\rho_{H}/((\rho_{xx})^2+(\rho_{H})^2)\)を使えば簡単。ええと、\(\rho_{H}\)はと、さっき解析したデータをとりあえず使えばいいだろう。\(\sigma_{xy}\)だから\(\rho_{H}=\rho_{xy}\)、と。
そういえばぼくのホールには異常ホール効果が含まれていたっけ。正常ホール抵抗率\(\rho_{H}^O\)と異常ホール抵抗率\(\rho_{H}^A\)を使ってホール抵抗率は\(\rho_{H}=\rho_{H}^O + \rho_{H}^A\)と書けるから、異常ホール伝導率は\(\sigma_{xy}^A=\rho_{H}^A/(\rho_{xx}^2+(\rho_{H}^A)^2)\)でいいよね?
(3) 正常ホール係数は温度依存しない定数なのか?
正常ホール効果は磁場に比例し、キャリア密度の逆数に比例する。\(\rho_{H}=-1/ne\cdot B\)。キャリア密度はフェルミ温度の高い金属では300 K程度の温度では変わりようがない。それでは温度によらない定数としてよいだろう。これは教科書によく出てくるから多分正しいに違いない。そう、良伝導体として有名な、単純な一価金属の銅なんかはたぶんそう。
(4) 正常ホール係数は磁場依存しない定数なのか?
正常ホール係数\(R_0\)を使って公式\(\rho_{H}=R_0 B\)とおこう。\(R_0\)は磁場によらない定数。だからホール効果は磁場に関して線形。きっとどんな時も。マルチバンド系で片方のキャリアのモビリティがやたら高いとか、そういうときは気を付けないといけないがそんなマニアックな状況めったに考える必要ないだろう。単バンド物質ならなおさら安心に使える公式といえる。単バンドならモビリティの効果が打ち消しあって、ホール効果に現れるのはキャリア密度だけって教科書の導出で観たことある。間違いないさ。
(5) 等価数ドーパントは正常ホール効果を変えることはないのか?
価数の違う不純物をドープすると供給される電子の違いからキャリアをドープすることができる。Si(4価)にP(5価)をいれれば電子ドープ。Al(3価)をいれれば正孔ドープ。これってつまり、原子価が同じ不純物だったらキャリア数は変わらないってことだから、正常ホール効果はドープ量によらず一定になるのだろう。じゃあアルミニウムに周期表の真下のガリウムやインジウムをドープしてもホール効果に変化はないって、容易に想像がつく。多分実際そう。これをぼくが研究しているエマージェントな量子物質にも適用してもいいだろう。Cu化合物のCuをAuに一部置換しても正常ホール効果は無傷に違いない。そういうことにしよう。だれも異論なんかないさ。
(6) 異常ホール伝導率\(\sigma^{\text{A}}_{xy}\)の計算はスピンと磁化の向きはどっち方向か?
内因的異常ホール効果はバンド構造から計算できる。理論家にお願いしたら計算してくれた。ありがたい。強磁性状態のとき\(\sigma^{\text{A}}_{xy}=\) xx S/cm...で実験の値と大体一致していてハッピー!!磁場を\(+z\)軸方向にかけたとき、電子スピンが\(+z\)軸に向くから、磁化が\(+z\)軸方向に出て、異常ホール効果が出ました。実験と理論で無矛盾に再現です。新規スピントロニクス材料開発に道。
(7) ホール効果が\(R_0B+R_sM\)からずれたらトポロジカルホール効果なのか?
ぼくのホール抵抗率はちょっと変な磁場依存性をしている。磁場に線形な正常ホール効果\(R_0B\)以外に、磁場をあげていくとくねっと曲がっている。これが異常ホール効果ってやつなのかな。異常ホール効果は確立された公式があって、磁化に比例する\(R_sM\)という項で書けるんだ。内因性?ってののときは\(R_s=S_H\rho^2_{xx}\)っていう、定数\(S_H\)と縦抵抗率\(\rho_{xx}\)で書けるんだってさ。大丈夫、磁化も縦抵抗率も測ってあるから。測定した\(\rho_{H}\)をフィットするように\(R_0B+S_H\rho^2_{xx}M\)の係数を決めて、っと。おや?どうやってもフィッテイングが合わないな。測定誤差?反磁場効果?形状効果?また小難しいことを。よし、差分をとって\(\rho_{yx}^{T}=\rho_{H}-R_0B-S_H\rho^2_{xx}M\)、これをトポロジカルホール効果ってことにしよう。さいわい誰も磁気構造を測っていないぞ。多分だけどこの量子物質では磁気構造がちょっと特殊なんだ。スピンが傾いていて電子のホッピングがベリー位相を獲得するから創発磁場を発生していてさ、エマージェントなわけよ。定量性?それは今後の課題ですねえ。
(8) 磁性体のホール効果が磁場に依存してクネクネすることに理屈をこねることは有意義なのか?
おかしいな、解析中のこの物質にはトポロジカルホール成分が磁気転移点以上の広い範囲でずっとあるみたいだ。傾いた磁気構造がないとスカラースピンカイラリティがないはずだから、常磁性状態だと消えると思ってたんだけどな...そうか揺らぎだ!スピンが揺らいでいるから、なんやかんやで電子が散乱されて軌道が曲げられてホール効果になるって理屈を考えたぞ!え?マルチバンドでも、なんだったら単バンド系でもホールはクネクネ曲がる?うーん、なんかその、そういうややこしい状況じゃないと思うんだよな。3バンドフィットなら説明できてしまうって?そりゃパラメーターを合わせればなんかフィットできるけど。それってなんか根拠あるんですか?このスパゲッティバンドの物質に3バンドモデルを適用する意義って何?量子物質はほら、複雑なんだから、物理の本質を抜き出したモデルでシンプルに説明することの方が価値があるんだよ。だから、既存のansatzには含まれていない新しい項を導入してさ、それでなんかすごいことが起きていると考えた方が合理的だと思うよ。既存の枠組みから外れないように理屈をこねるのっていかにも受験戦争を勝ち抜いてきたガリ勉の発想って感じでクリエイティビティにかけててよくないと思うな。そういえばいつも1970年代の論文ばっかり読んでるよね?現代物性物理学は古い固体物理の焼き直しだ、なんて。なんでもシニカルにとらえるのがかっこいいってひょっとして思ってる?これはぼくの論文なんだから関係ないだろ。そうやって横やりを入れて結論をねじまげるのはよしてくれ!ホール効果なだけに。
筆者注:
(0) 測定自体が簡単であることは認めるところではあるが、実践的な注意点がないわけではない。特に、ホール効果を研究し始めて知ったこととして個人的に驚いたことは形状効果である。試料横幅に対する電流端子間の比がある程度大きくないと観測したホール電圧は実際の値より過少評価されてしまう。ホール係数を使ってキャリア密度を見積もるなどするわけであるが、定量的にどの程度信頼できるのだろうか?測定したサンプルの形状は多くの場合論文に書かずに省略されてしまいがちな情報である。それにもかかわらず定量性に影響が出る要因になりうることは隠れた問題点であると言える。
(1) まずは正確なことを書こう(自分で絵を描いて確かめてみることを勧める)。右手系でデカルト座標系をとり、電流を\(+x\)軸方向に印加(電流密度: \(j_x\))したときに横方向\(y\)軸に電場\(E_y\)が生じる。\(3\times 3\)の抵抗率テンソル\(\rho_{ij}\) (\(i, j = x, y, z\))の成分の一つを用いて\(E_y = \rho_{yx}j_x\)となるので、この場合測定している物理量は\(\rho_{yx}\)である。もし電流を\(y\)方向に印加したときの\(x\)軸方向の電場を測定しているという設定なら、今度は\(E_x = \rho_{xy}j_y\)となり、測定しているのは\(\rho_{xy}\)。どちらが自然な設定かというのは派閥が分かれそうではあるが、個人的には前者の方がキャリアの符号とホール抵抗率の符号が一致して混乱が少ないのではないかと思う。
前者の設定でさらに考える。試料中の電場ベクトルが\(+y\)方向に向いているときに\(\rho_{yx}>0\)になるので、試料上の電極に電圧計の端子をつなげるときは試料の\(y\)座標の負側にある方を\(+\)端子に、正側にある方を\(-\)端子につけることで電圧計の読みと\(\rho_{yx}\)の符号が一致する。磁場が\(+z\)軸方向にかけてあるときに\(\rho_{yx}>0\)ならキャリアは正孔的、\(\rho_{yx}<0\)なら電子的である。もちろん後者の設定でも電圧計のつけ方を逆にすれば\(E_x\)を測っていることになるので矛盾は生じない。ただしその場合、\(\rho_{xy}<0\)ならキャリアは正孔的、\(\rho_{xy}>0\)なら電子的というようにシグナルとキャリアの符号の関係性が逆になることになる(覚えていられるか?混乱のもとはなるべく減らすべきだろう)。オンサーガーの相反定理によりホール抵抗率には\(\rho_{xy}=-\rho_{yx}\)の関係があることを思い出そう。
縦抵抗の電圧が負に出てしまっていたら抵抗が負になってしまうので電極のつけ間違いだとすぐに気づくのだが、ホール抵抗は符号がどちらでもありえてしまうので間違いに気づきづらい。測定した本人しか正しくつけられているかは知る由もない。それに加えて、文献では\(\rho_{xy}\)という記号を使いつつ、実際に測定している物理量は\(\rho_{yx}\)である場合もある。そしてそのことを文中で特に説明しないことが多く、査読でもあいまいさが指摘されることはほとんどないのでほぼ無法地帯と化している。
(2) ホール伝導率テンソル\(\sigma_{ij}\)は\(j_i = \sigma_{ij}E_j\)を通して定義されるのでちょうど\(\rho_{ij}\)の逆行列の関係である。そのことを考慮すると\(\sigma_{xy}=-\rho_{xy}/((\rho_{xx}\rho_{yy})-(\rho_{yx}\rho_{xy}))=\rho_{yx}/(\rho_{xx}^2+\rho_{yx}^2)\)となる。\(\rho_{yx}\)と\(\sigma_{xy}\)の符号が対応すると覚えておこう。
上記のことを理解しておけば異常ホール伝導率\(\sigma_{xy}^A\)の変換公式も導ける。つまり、\(\sigma_{xy}^A=\rho^A_{yx}/(\rho_{xx}^2+\rho_{yx}^2)\)。ここで分母のホール抵抗率の項が\(\rho_{yx}^A\)とはならないことに注意。まず測定した抵抗率テンソル全体の逆行列を取って伝導率にしてから、異常項を分離するという手順なので\(\rho_{yx}\)を使うのが正しい。ただし、ホール抵抗率の全体\(\rho_{yx}\)が正常項と異常項(\(\rho_{yx}^A\))に分けられるという仮定を使っている。このことはこのことで別に検証しなければならない。
分母に\(\rho_{yx}^A\)を使っていい場合があり、それはゼロ磁場における\(\sigma_{xy}^A\)を見積もるときである。ゼロ磁場で自発的異常ホール効果が出ているときは\(\rho_{yx}=\rho_{yx}^A\)になるのでそのような変換公式が許される。この公式を使って議論している論文として一番有名なのがおそらく doi.org/10.1038/s41567-018-0234-5 であろう。後追いのコンセプト消費型研究者はこの公式を何も考えずに丸写しにして、有限磁場中に適用して議論をすすめているため質の低い議論が蔓延することになる。ただし多くの場合、分母の\(\rho_{yx}\)は\(\rho_{xx}\)に比べて小さい(ホールアングルが小さい)ので分母に\(\rho_{yx}^2\)があろうがなかろうが、議論の定量性に影響を及ぼすことはほとんどない。
(3) ホール係数の温度依存性の論文としてカリウムを扱ったもの(doi.org/10.1088/0305-4608/10/3/018)と銅, 銀, 金を扱ったもの(doi.org/10.1103/PhysRev.174.729)をあげる。どれも一価金属でフェルミ面も一つだが温度依存性が大小あり、一筋縄ではいかないことがうかがい知れる。
(4) 単一のフェルミ面を持つ金属ですらその曲率が特殊であるとホール効果は磁場依存することが知られている。電子が散乱されるまでフェルミ面をぐるっと一周できる(高磁場領域)場合と、すぐに散乱されてしまって局所的な曲率しか感じられない(低磁場領域)場合で応答が異なるわけである。正常ホール係数はフェルミ面の体積(キャリア密度)の逆数に比例する、つまり散乱の詳細によらない大域的物理量であるというナイーブな理解とは裏腹に、電子の緩和時間に関して敏感な物理量であり、ホール効果を使った議論にすれ違いが起きる。フェルミ面の形状がよくわかっていない物質において、「正常ホール効果の成分は磁場に線形だと考えてそれを差っ引きます」という議論はかなり荒っぽい議論である。とはいえ異常項を分離し、ベリー位相とこじつけ、その大きさを謳いたいという誘惑には現代物性物理学者は逆らえない。
(5) アルミニウムにインジウムやガリウムをドープするとホール係数は符号を変えることが知られている。純良Cu化合物にAuをドープしてホール効果が驚くほど変わったとしても創発効果だなどと大騒ぎしないように慎重に考察しよう。
(6) 電子スピンと磁化の向きは逆である。電子スピンを\(+z\)方向にそろえたときの計算は磁化が\(-z\)軸方向に向いたときの状況を考えているので\(\sigma_{xy}\)も実験とは逆になる。理論家の計算が間違っているとは考えていないが、電子スピンの向きがどちらか聞いたときに正しく即答できた理論家には今のところ出会ったことはない。
(7) 異常ホール効果の解析で金科玉条のごとく扱われているのが、公式\(\rho_{yx}=R_0B+R_sM+\rho_{yx}^{T}\)である。第一項は磁場に線形な正常ホール効果、第二項は磁化に比例するconventionalな異常ホール効果である。第三項はunconventionalな異常ホール効果ということで\(\rho_{yx}^U\)と書かれたりするが、特に磁気構造の非共面性によるスカラースピンカイラリティを起源とする効果であることを強調したい場合、トポロジカルホール効果の頭文字をとって添え字Tが使われる。要するに公式の最初の二項で説明できない成分が測定データに含まれていたら、by definitionでトポロジカルホール効果と名付けることにしているのである。
公式の最初の二項はホール効果の一番単純な表式を示しているだけであり、20世紀前半にまだ磁性体のホール効果が詳しく調べられていなかった頃の乏しい観測結果に基づく、強磁性体に限定された経験則にしかすぎない(Hurd, "the Hall effect in metals and alloys": doi.org/10.1007/978-1-4757-0465-5)。これに第三項を付け加え、反強磁性体や磁場誘起相転移をする磁性体、磁性半導体・半金属にまで広く適用しだしたのはここ最近である。よく考えなくてもわかるように上記のようなあまりにも単純化された公式を複雑な物質に適用していいかどうかは注意しなくてはいけない。\(R_0\)や\(R_s\)が磁場や温度、磁気構造や電子状態にどう依存するかは個々の物質の特性に強く依存するであろうことは容易に想像がつくし、実際成り立っていないと考えられる物質もいくつも存在する。そもそも正常ホール効果ですらも磁場に対して線形とは限らないのだから、公式の最初の二項は恣意性なくどうやって決定するのか?
特にトポロジカルホール解析の欠陥といえる部分は実際に抽出した\(\rho_{yx}^T\)なる成分が定量的に妥当なのかを検証することがほとんどできないということである。つまり出てきた値をそのまま信じるしかないのである。理論的な上限は一応与えられているが、実際に観測されるのはそれよりも一桁も二桁も小さい値であることが多い。小さくなることに関して理屈をつけることはいくらでもできるので、観測値の妥当性に関してDiscussionで何とでも言えるのである。上限値すらも最近ではそうとは限らないとする理屈が考案され始めており、歯止めが効かなくなってきているのが現状である。私がこれまで見てきてもっともグロテクスな解析だと思った論文はホール伝導度の磁場依存性を正常ホール効果でも十分説明できることをサプリに書きながら本文では超越するすべての成分を異常項として主張した論文である。気づいていてやることと気づかずやってしまうこと、どちらがより邪悪か、意見は分かれると思うが。
"観測"された\(\rho_{yx}^T\)を前にして科学者は選択を迫られる。これをスピンカイラリティ由来のトポロジカルホール効果として"解釈"し、背景にそれをもたらしうる非共面的な磁気構造の存在を示唆する論文を書くか、解析手法によるアーティファクトの可能性を考慮してどっちつかずの控え目な主張の論文を書くか(あるいはお蔵入りか)、である。極端な二択をあえて書いたが、迷うまでもなく全員が前者を選ぶであろう。そしてなんとかしてスカラースピンカイラリティの存在の可能性を模索するはずだ。そうでないにしても、磁気構造の存在を実際確かめるのは今後の課題としてまずは原著論文の出版が最優先と考えるであろう。このようにして論文が生産され、出版された論文を引用することで、別の研究者も自分たちの解析の妥当性を補強し、論文が出版できる。この生産再生産のプロセスがしばらく続くと巷にはスカラースピンカイラリティやその揺らぎ(どうやって確かめるんだ?)とやらによって誘起される"異常なホール効果"を観測したという論文があふれるわけである。これは科学研究というより、コミュニティー内のそうであってほしいという要望に合わせたストーリーをみんな意図せずにでっちあげているとみることもできる、と言ったら言い過ぎであろうか。このような不健全さがもしあるとしたら、それはどこから来るのであろうか?
上記の一連の流れの中で欠落しているのは観測された振る舞いが"スカラースピンカイラリティによるものではない"という反対意見を述べる研究インセンティブである。反対意見があればそれに反論するためによりよい検証手段や精密な解析手法の提示などが生まれていき、そうであるものとそうでないものを見分けられるような改善がなされていくはずである。そうしてコミュニティー全体の知識や洞察力が増すことで分野は発展する。残念ながら上記にあげた参考文献を除いてそのような反対意見を述べようとするグループはほとんど存在しない。いったん主張がなされるとそれを反証する有効な方法もない。なぜならトポロジカルホール効果に定量的な検証余地があまりなく、現象論なので反論のしようがないのである。あるいは比較対象となりうる正常ホール効果などの自明なホール効果ですら電子状態に敏感に依存し、定量的に計算することが難しい物理量だからである。定量的にも定性的にも明確に反証できないのに、わざわざ自分たちの研究リソースを消費して反対意見を述べようとは思わないのは当然であろう。誰かそういう論文を書いて分野の健全化を図ってくれるといいのだが...
(8) もちろん物性物理学としてその起源を明らかにする試みは有意義である。一方で\(\rho_{yx}^T\)を抽出したと主張する論文の多くはホール効果の物理的起源に関して驚くほど無頓着である。上記のように様々な理由でホール効果は非自明足りうるわけである。それらを一切見ないことにして根拠のない単純化されたモデルを当てはめてそこからずれた成分をすべて創発磁場に由来する異常項に結び付けようとするのは短絡的であり、物性の理解を深めることからはむしろ遠ざかっている。科学を深めることよりも論文を生産し、先生を喜ばせるためのお行儀のよい答えを優先しているように見える。
追記:タイトルの"花束"は宇多田ヒカルの名曲『花束を君に』の歌詞にインスパイアされたものである。楽曲の趣旨とは異なるかもしれないが、大切に思っていることに対して、言いたいことが山ほどあってもどんな言葉をならべても真実にはならない、ということである。子供のころに読んだ少年漫画が自分が大人になってもまだ連載されており、長期連載ゆえの破綻やキャラが崩壊していくのを我慢しながら、終わりに近づいていこうとしているときの、不都合な部分を口に出さないようにしながら読み続けるときのような感覚。最初鑑賞したときに揺さぶられるように感動した映画や小説を定期的に何度も見返すうちにふと、撮影方法のミスや設定の矛盾点に気づいてしまったときのような気まずさ。研究室配属されて初めて渡された先駆的論文、先輩の偉大な先行研究。それらをもとに研究を進めていく内に解釈の恣意性や仮定のずさんさが見えるようになってきて、それでもそのレールに沿ってしか自分の研究を進められないもどかしさ。これらはみな、言葉にはできない感情をともなって意識の中にいつまでも残り続けてしまうものだろう。何も言うことなく花束を手向けるくらいしかできないのかもしれない。ただ、表現する方法を持っている人は救いがあり、義務があるとも言える。研究者にとって花束の代わりになるものといえば一つしかないのだから。