Friday, October 1, 2021

固体物理学の教科書の\(e\)の定義

 筆者が学部学生のとき固体物理の授業を受けていると、担当教員の先生は熱電能の理論式に対してこう説明を加えた。「これはザイマンからとってきた数式なので電子の電荷に対する記号\(e\)は負の値である。」
 固体物理に出てくる数式にはしばしば\(e\)に比例するものが出てくる。熱電係数をはじめ、ホール係数、ボーア磁子、サイクロトロン周波数、磁束量子、電磁場中の電子の運動方程式などである。教科書中で\(e\)の値が正負どちらで定義されているかによって、これらの数式はみため上符号が異なることになる。固体物理の教科書はアシュクロフト・マーミンやキッテルをはじめとして様々なものが出版されている。いったいどちらが主流なのか、電気素量\(|e|=1.60...\times 10^{-19}\) Cを数式中で使用する際に正負の整合性に配慮はなされているのか。筆者が多くの教科書を読んできた中でこれらのことが前から気になっていたのでここでまとめることにした。
 結論から言うと、筆者の予想に反して\(e<0\)を選んでいる教科書が多いことが分かった。ただし\(e>0\)を選んでいる教科書がどれも数式の定義に高い首尾一貫性をもっているのに対し、\(e<0\)を選んでいる教科書はほとんどすべての場合において断りなくあるところから\(e>0\)として議論を進めたり、章や節が変わるとその定義を変更していたりすることがみられた。たとえば電子の運動方程式を\(m\boldsymbol{a}=e\boldsymbol{E}\)として\(e<0\)を定義しているにもかかわらず、ボーア磁子を\(\mu _{\rm{B}}= e\hbar /2mc\)で定義し\(e\)を文中に断りなく正の値として扱っている文献が多い。つまり同じ記号に文脈に依存して二つの定義を与えている。
 物理的直観に従えば文脈から\(e\gtrless 0\)は容易に判断できるし、固体中のキャリアの符号によっても理論式の符号は変化してしまうものなのだからこだわるだけ無駄だといわれればそれまでだが、このようなくだらないことがあることも学問の楽しみの一つであるとも思う。一方で研究をしたり論文を書いたりするときには書いている本人がどちらの定義を採用しているのかよく自覚していなければならないので、どういうときに数式間の整合性が乱れるのかを知っておくことは何かの役に立つかもしれない。
 以下に具体的な教科書で\(e\)がどのタイミングで定義され、もしくはされないで、それが各章でどのように揺らぐのか、あるいは揺らがないのかを見ていく。

1. \(e>0\)を選んでいる教科書

The theory of metals (Wilson, Cambridge, 1965)

Chapter I Historical introduction(\(e>0\)): この教科書では電気素量のシンボルとして\(\epsilon\)を使う。そして\(-\epsilon\)を電子の電荷として定義している(p1)。この定義は基本的にこの教科書全体を通して首尾一貫している。

Electrons in metals and semiconductors (Chambers, Chapman and Hall, 1990)

1 The free-electron model(\(e>0\)): 電子が運ぶ電荷を\(-e\)と定義している(p3)。

Solid state physics (Ashcroft & Mermin, Brooks/Cole, 1976)

Chapter 1 The Drude theory of metals(\(e>0\)): 脚注3に\(e\)をいつも正の値としてとることが宣言されている(p3)。
Chapter 31 Diamagnetism and paramagnetism(\(e>0\)): ベクトルポテンシャルがあるときの運動量演算子の置き換えを電子の電荷が\(-e\)であることに注意しながら\(\boldsymbol{p}_{i}\rightarrow \boldsymbol{p}_{i}+\frac{e}{c}\boldsymbol{A}(\boldsymbol{r}_{i})\)としている。電子スピンと磁場との相互作用の方向も正しく定義されており、ボーア磁子にも符号の混乱は見られない(p646)。

Magnetic oscillations in metals (Shoenberg, Cambridge, 1984)

Symbols and abbreviations(\(e\gtrless ?\)): \(e\)をelectronic chargeとして定義しているが後ほど\(e>0\)として扱っていることが判明する(pxvii)。
2 Theory(\(e>0\)): 量子振動の周波数\(F\)とフェルミ面の断面積\(A\)との関係を\(F=(c\hbar /2\pi e)A\)で与えている(p23)。磁場中の電子の運動方程式を\(\hbar \dot{\boldsymbol{k}}=\frac{-e}{c}(\boldsymbol{v}\times \boldsymbol{H})\)で与えており、\(e\)が正値であることを明示している(p23)。

熱電材料の物質科学 (寺崎一郎, 内田老鶴圃, 2017)

第3章 固体の電子状態(\(e>0\)): 荷電粒子の持つ電荷を\(q (=\pm e)\)とおいて立式している。この方法だと最終的な表式はキャリアが電子でも正孔でも適用可能になってよい(p34)。すべての教科書は最初からこの方式を採用すればいいと思う。ただし\(q\)も別の物理量として使用したい記号ではあり、重複を避けるのは難しい。

固体物性と電気伝導 (鈴木実, 森北出版株式会社, 2014)

第5章 ドゥルーデモデル(\(e>0\)): 脚注2に本書全体を通して\(e>0\)とし、電子の電荷を\(-e\)とすると明示してある(p94)。符号を含む電荷は\(q\)を使うとしている。

キッテル固体物理学入門 第8版 (丸善, 平成17年)

6 自由電子フェルミ液体(\(e>0\)):電荷\(-e\)をもつ電子と明言している(p157)。
物理定数表(\(e>0\)):\(e\)を陽子の電荷として正値で定義している。珍しい。

固体電子の量子論 (浅野健一, 東京大学出版会, 2019)

本書で用いる記号・表記(\(e>0\)):\(e\)を素電荷として定義している。明示的でないが正値である。

2. \(e<0\)を選んでいる教科書

Quantum Theory of Solids (Peierls, Oxford Univ. Press, 1955)

IV Electrons in a perfect lattice(\(e<0\)): 外場\(\boldsymbol{F}\)中の電子の運動方程式を\(\frac{d\boldsymbol{k}}{dt}=\frac{e}{\hbar}\boldsymbol{F}\)として与えている(p88)。
VI Transport phenomena(\(e<0\)): 電子の電流密度を\(J_{x}=2e\int n_{1}v_{x}\rho dEd\sigma\)で与えている(p118)。\(n_{1}\)は電子の分布関数の平衡状態からの外場に関する一次のずれ、\(\rho\)はエネルギー表面状態密度、\(d\sigma\)はエネルギー表面素量。
VII Magnetic properties of metals(\(e<0\)): ホール係数を\(R=\frac{F_{y}}{HJ_{x}}=\frac{1}{ecN}\)で定義している(p157)。あるいは\(e\)の符号はキャリアタイプによると考えてもよい。しかしボーア磁子や移動度などの記述では\(e>0\)が想定されているようで、首尾一貫していない。
List of symbols(\(e<0\)): electron chargeと定義している。

Fundamentals of the theory of metals (Abrikosov, Dover, 1988)

3 Electrical and thermal conductivity(\(e<0\)): 外部電場\(\boldsymbol{E}\)の下で運動する電子が単位時間あたりに受ける仕事を\(\boldsymbol{v}e\boldsymbol{E}\)と定義している(p35)。
4 Scattering processes(\(e<0\)): イオンの核電荷を\(-Ze\)で定義している(p48)。
5 Galvanomagnetic properties of metals(\(e<0\)): 磁場中の電子の運動方程式を\(\frac{d\boldsymbol{p}}{dt}=\frac{e}{c}[\boldsymbol{v}\boldsymbol{H}]\)で与えている(p76)。
10 Magnetic susceptibility and the de Haas-van Alphen effect(\(e<0\)): ただしボーア磁子\(\beta =e\hbar /2mc>0\)や磁束量子\(\Phi _{0}=\pi c\hbar/e=2.05\times 10^{-7}\) Oe cm\(^{2}>0\)に関する定義に正負の混乱がある。

The electrical properties of metals and alloys (Dugdale, Arnold, 1977)

2 Simple picture of properties(\(e<0\)): 電場\(\mathcal{E}\)の下で運動する電子の運動方程式を\(ma=e\mathcal{E}\)で与えており、電子は負の電荷をもつので電場に対して反対方向に加速されると明言している(p12)。

Magnetoresistance in metals (Pippard, Cambridge, 1989)

General remarks(\(e<0\)): list of symbolsに\(e\)をelectronic charge (negative)と定義している(pxi)。
4 Quantum effects(\(e<0\)): ほとんどの式はこの定義と整合しているが\(eB/m=\omega _{c}\)として定義しており、これが負値になってしまう。するとすぐ後のエネルギー固有値の表式がいくらでも大きな負値を許すようになってしまう(p133)。

Principles of the theory of solids (Ziman, Cambridge, 1964)

2 Lattice waves(\(e\gtrless ?\)): この教科書では電子電荷のシンボルとして\(\boldsymbol{e}\)を使う。\(\boldsymbol{e}\)の初出はおそらく式(2.26)だがここ以前に記号\(\boldsymbol{e}\)の定義は与えられていない(p37)。電荷であることすら記述がない。本書にはList of symbolsもない。
5 Electron-electron interaction(\(e<0\)): 式(5.4)に電子の波動関数の変形による電荷密度の変化\(\delta \rho (\boldsymbol{r},t)\)が与えられており、\(\boldsymbol{e}<0\)として扱っていることが判明する(p147)。依然として\(\boldsymbol{e}\)がelectronic chargeであることの記述はない。
7 Transport properties(\(e<0\)): 移動度\(\mu\)が式(7.36)に\(\mu=\frac{|\boldsymbol{e}|\tau}{m}\)で与えられており正値性に配慮していることが分かる(p218)。Mottの式が式(7.104)で与えられており(p237)、そのすぐ後に"It is worth noting that the charge \(\boldsymbol{e}\) is conventionally negative..."(p238)と出てくることから\(\boldsymbol{e}\)が負値を想定していることが分かる。ただし式(7.105)においてエネルギーの関数としての電気伝導度\(\sigma (\mathcal{E})=n(\mathcal{E})\boldsymbol{e}\mu (\mathcal{E})\)を与えており(p237)、この定義だと\(\sigma <0\)になってしまう(Mottの式には\(\frac{\partial \ln \sigma}{\partial\mathcal{E}}\)の形で入ってくるので\(\sigma\)のグローバルな符号は最終結果には影響しないが)。
9 The Fermi surface(\(e<0\)): サイクロトロン周波数\(\omega _{H}\)を式(9.58)で\(\omega _{H}=\frac{\boldsymbol{e}H}{mc}\)で与えている(p314)。つまり\(\omega _{H}<0\)になってしまい、ほかの式との符号の整合性がつかなくなってくる。首尾一貫できないなら最初から\(e>0\)と定義するべきだろう。

Electrons and phonons (Ziman, Oxford, 1960)

Index of symbols(\(e<0\)): electronic chargeとして記号が定義されている。Principles~と同じ扱いである。

The Hall effect in metals and alloys (Hurd, Plenum, 1972)

Chapter 1 The dynamics of electrons in metals: low-temperature effects(\(e<0\)): 磁場中で電子にかかるローレンツ力を式(1.12)で\(\boldsymbol{F}=\frac{e}{c}\boldsymbol{v}\times \boldsymbol{H}\)で与えている(p11)。ただしサイクロトロン周波数\(\omega _{H}=\frac{\boldsymbol{e}H}{mc}\)は正値で扱っている(式(1.15), p11)。

Fundamentals of thermoelectricity (Behnia, Oxford, 2015)

2 The semiclassical picture(\(e<0\)): それぞれの電子は電荷\(e\)をもつとされている(p21)。

Quantum theory of solids second revised printing (Kittel, Wiley, 1963)

9 Bloch functions \(-\) general properties(\(e<0\)):電場\(\boldsymbol{E}\)の下で加速される電子の運動方程式を\(\dot{\boldsymbol{k}}=e\boldsymbol{E}\)と置いている(p190)。固体物理学入門では\(e>0\)派なのになぜなのか不明。
11 Dynamics of electrons in a magnetic field: de Haas-van Alphen effect and cycloron resonance(\(e<0\)):サイクロトロン周波数を\(\omega _{c}=-eH/mc\)と定義している(p218)。確認した教科書の中で\(e<0\)と整合する定義を採用しているのはここだけであり、異例である。
11 Dynamics of electrons in a magnetic field: de Haas-van Alphen effect and cycloron resonance(\(e<0\)):磁場中の電子の運動方程式を\(\dot{\boldsymbol{k}}=(e/c)\boldsymbol{v}\times \boldsymbol{H}\)と定義している(p226)。しかしすぐ後のサイクロトロン周波数の定義では\(\omega _{c}=eH/m_{c}c\)としており、わずか8ページの間に異なる定義が複数登場する。この教科書では時々思い出したように\(|e|\)や\(|\omega _{c}|\)などのように\(e\)の符号が負であることに気を使う場面が登場し、ほとんどの場合首尾一貫している。\(e<0\)派の名著である。

3. \(e>0\)と\(e<0\)が混在する教科書 

モット・ジョーンズ 金属物性論 (内田老鶴圃新社, 昭和53年)

上・II 結晶格子中で平衡状態にある電子(\(e>0\)):核電荷を\(Ze\)と定義している。\(Z\)は定義がないが文脈から正の整数である。電荷\(+e\)をもった正の荷電球という記述もある(p47)。
上・III実際の場での電子の運動(\(e>0\)): 電子による電流に対する寄与を\(j=-ev\)で与えている。\(v\)は電子の速度(p109)。
上・III実際の場での電子の運動(\(e<0\)):電子が電場\(F\)の中を速度\(v\)で時間\(\delta t\)運動するときに電子のエネルギー変化\(\delta E\)を\(\delta E = eFv\delta t\)として与えている(p112)。ただし後に出てくるいくつかの式ではこの定義では負の確率を与えてしまう。
上・IV凝集(\(e>0\)): 電子密度(連続的陰電荷分布)を次式(12)で与えている。つまり\(\rho = -e\sum_{i}|\psi _{i}(\boldsymbol{r})|^{2}\)(p162)。
下・VI金属電子の熱容量と磁気的性質(\(e<0\)): スピンが磁場に対し平行に向いたときの電子のエネルギーを\(-H\mu\)で定義している(p217)。\(\mu\)はBohrの磁子\(\mu = e\hbar /2mc\)。電子の持つスピン角運動量は磁気モーメントと反平行なのでスピンが磁場に対して平行なとき磁気モーメントは反平行でエネルギーが正になる必要がある。すなわち\(\mu <0\)である。しかし文脈から\(\mu >0\)として記述している箇所もある。
下・VI金属電子の熱容量と磁気的性質(\(e>0\)):磁場中の自由電子のエネルギーを\(l\)を正の整数として\(E_{l}=\frac{eHh}{2\pi mc}(l+\frac{1}{2})\)で与えている(p238)。
下・VII金属と合金の電気抵抗(\(e<0\)): 外場\(F\)中の電子の運動方程式を\(m\ddot{x}=eF\)で与えている(p284)。ホール係数\(A_{H}\)を\(A_{H}=c/eN\)で定義し、\(e\)を電子電荷で、したがって負の量であると明言している(p330)。ホール係数の定義はあらわに与えられてないが文脈から\(\rho _{yx}/H\)と考えてよい。つまりその符号はキャリアーの符号に等しい。熱電率\(S\)に関する式いわゆるMottの式\(S=\frac{\pi ^2}{3}\frac{k^2T}{e}\{\frac{\partial (\log \sigma (E))}{\partial E}\}_{E=\zeta}\)もこの章で式(116)で与えられている。この表式はこの文献を引用する形で論文でもしばしば出てくるが論文中では\(e\)の正負を定義していない場合が多い。
附録II金属の定数(\(e>0\)): \(e\)を電子電荷として正の量\(4.770\times 10^{-10}\)e.s.u.と定義している。

おわりに

 20冊程度の教科書を調べて\(e\)の定義のバリエーションを見てきた。多くの伝統的教科書で\(e\)の符号を正で定義したか負で定義したかに関して注意深く扱っていないことが分かる。むしろ調べていく中でこのようなことを気にしている自分の方がおかしいのではないかと思えてきた。結局\(e\)の符号がどちらで定義されているかで物理が変わるわけではないので論文を書くときに、どこかのタイミングで真剣にチェックすればよいのではないだろうか。一つの教科書内で記号の定義に完全な首尾一貫性を求めるのは数式に対するセンスとして繊細過ぎる。このようなことに頭を悩まさないでもっと生産的なことに時間を使った方がよいと思う。しかし論文に上記のような定義の揺らぎがあると、内容に対しても印象が悪くなる可能性もある。クオリティの高い論文を書くことを目指して時々気にしてみるのも大事なのではないだろうか。

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